今月のことば  令和5年 9月

あらわす言葉が存在しないものを考えることはできますか。

ミヒャエル・エンデ『親愛なる読者への四十四の質問』

 

【解説】

 十六世紀後半、日本にキリスト教が伝来する。それまで日本にはなかったキリスト教の教えを、どう日本語に翻訳したか。

 

 この世界の創造主であるdeusは大日と訳された。大日如来は、密教において宇宙の真理そのものを表している仏様である。相通ずる気もするが、仏様の名を用いたことでキリスト教が仏教の一宗派と見なされてしまった。それでは不都合だと他の訳語も用いたが、日本語を使うと日本の文化に取り込まれてしまう。結局deusは「デウス」として布教を進めることになった。現在は神という訳が一般的だが、これも八百万の神との混同を危惧する声が多い。本当にふさわしい言葉は、私達の言葉の中にはないのかもしれない。

 

 禅に「不立文字」という教えがある。仏教の最終目標である悟りを開くと私達はどうなるのか。様々な説明があるが言葉にすればそれに囚われてしまう。だから経典の言葉から離れ、お釈迦様と同じ修行を実践し、悟りを直接体験するべきだという教えだ。

 

 言葉では説明できない、人間の考えが及ばないところに教えの神髄がある。だから信じて実践するしかない。その方法の一つが、法然上人が説く専修念仏の教え、ただひたすらに念仏唱えることである。法然上人の著書には念仏に関する理論を記したものもある。しかし、唱えるに当たって重視したのは一心に唱えることである。専修念仏ならば言葉や思考を超えて仏様に近付ける。だから法然上人は、数ある仏教の教えや修行の中から念仏を選んだのである。