両鏡相照らし中心に影像無きに似る
【意味】
二つの鏡を向かい合わせた時、その間に鏡以外の何も映らないことに似ている。
【注釈】
・白隠慧鶴(一六八六~一七六九)…江戸中期の禅僧。当時は衰退しつつあった臨済宗を復興させる。
・槐安国語…白隠慧鶴の著書。臨済宗大徳寺派の開祖である大燈国師の語録を解説したもの。
【解説】
二つの鏡を向かい合わせると、向かい合った鏡がお互いを映し合う。鏡に映った鏡の中に鏡が映り、その中にまた鏡が映る。この時、向かい合う鏡には鏡以外の物は映っていない。仏様やその教えと向き合う時は、このように余分なものを無くし、一対一で直接向き合うべきだという意味である。
私達が仏教に接する機会は、法事や法要といった仏事が多いだろう。その際は故人の供養を通して仏教と向き合うが、仏事のやり方も故人の供養も仏教の本題ではない。だから仏教と直接向き合っているとは言い難い。しかし、仏事を通した方が仏教に親しみやすいということもある。最初はそこを手がかりとして仏教に入ることも、方法の一つである。
そこから仏教について学んでいく中で、余分なものは自然と削ぎ落とされ、最低限の必要なものだけが残る。その上で、一度は手放したものの中から、自分に必要のものを改めて取り入れればいい。余分かもしれないものを持たずにはいられない、それが人間の弱さである。そういう弱さを隠さずに仏様と向かい合えばいい。仏様は私達の弱さも含め、受け入れて向かい合ってくれる。