「仏陀」なりとて斥けず
「キリスト」なりとて迎えず
‐内村鑑三‐
【意味】
「仏教」と名付けられたものだからといって遠ざけてはならない。
「キリスト教」と名付けられたものだからといって近づけてはならない。
【注釈】
・内村鑑三(一八六一~一九三〇)…キリスト教伝道者。教団や聖職者を不要とする「無教会主義」を掲げ、日本古来の思想の上に真のキリスト教信仰を根付かせることを目指した。
【解説】
一七歳でキリスト教の洗礼を受けた内村鑑三は、二十三歳の時に理想のキリスト教国と憧れたアメリカに留学をする。そこで当時のアメリカのキリスト教団や教会の活動の商業化、人種差別、拝金主義などを目の当たりにして失望する。
内村は日本古来の思想や道徳、日本仏教の宗祖達の教えを見直す。そして名ばかりのキリスト教を取り入れず、仏教をはじめとする日本の伝統文化を大切にしてこそ、日本が真のキリスト教国になり得ると考えた。
仏教とキリスト教は通じ合う部分もあるかもしれないが、根本的には相容れない教えである。内村もそれはわかっていたはずだ。それでも日本文化における仏教の重要性を認めることが、本当のキリスト教を日本に根付かせることになると考えた。
一方仏教の立場から考えても、キリストやその他の教えを拒絶するだけでは、本当に仏教を実践することにはならない。
仏教は悟りを開いて仏となるための教えである。それを説いたのは仏様だが、無数にある仏様の教えを「仏教」という一つの宗教としてまとめたのは人間である。私達が仏教だと思っている教えの他にも、悟りに繋がる道はまだあるかもしれない。
人間が作った「仏教」という枠に囚われてはならない。ありとあらゆるものに触れてこそ悟りへの道が見えてくる。仏陀なりとて迎えず、キリストなりとて斥けず。それを受け入れてくれる大らかさこそが仏様の心である。